「婆子焼庵」の公案!あなたならどうする? [法話]
今日は、連れ合いの実家の先住大和尚(義父)の17回忌に随喜して参りました。
こうしょうも衣を着てお経を読みおじいちゃんの供養を勤めました。
法要のあと、導師をお勤めになられた御老僧より、こうしょうは僧侶として大事な心構えを教えて頂きました。
それは、次記事のお楽しみということで、
今日は画像なしの法話です。
道樹録や折中録などに出てくる「婆子焼庵」という公案について、皆さんの力をお借りして
解決法を探求したいと思います。
まずは、原文から・・・
『昔、婆子あり、一庵主を供養し二十年を経たり、常に一人の二八女子をして飯を送って給持せしむ。一日女子をして主を抱かしめて曰く、正に恁麼の時如何と。主曰く枯木寒巌に倚る三冬暖気無し。女子婆に挙似す。婆曰く我れ二十年祗箇の俗漢に供養せしかと。遂に遣出して庵を焼却す。』
普通に訳すと・・・
ある老婆が、一人の修行僧を世話をして20年が過ぎました。いつも、ひとりの少女に食事を届けさせ仕えさせていたのですが、ある時その16になる少女に修行僧に抱きつき誘惑するように言いつけました。
少女は修行僧に抱きつき「さあ、どうしますか?」とささやきました。
修行僧は「枯れた木が寒い岩に立つように私の心は熱くなりません。」と言って少女の誘いを断ったといいます。
少女からその報告を聞いた老婆は「私は、二十年もこんな俗物に供養してきたのか!」と怒りだし、庵を焼き払ったというのです。
もし、皆さんが誘惑を受けた時はどうしますか?
真面目に誘惑を断った、いわば模範的な修行僧は、庵を追い出されてしまった。
もし、誘惑されていたらどうなったのでしょう?
おばあさんの真意はどこにあったのか?
いろいろ想像すると面白い公案でもあります。
山寺日記ですので、自由な発想でコメントを入れてくれればうれしいです。
今日の福島県は寒くて炬燵に火が入っていました・・・
-解答編は10月11日、夜10時頃公開予定です。-
こうしょうも衣を着てお経を読みおじいちゃんの供養を勤めました。
法要のあと、導師をお勤めになられた御老僧より、こうしょうは僧侶として大事な心構えを教えて頂きました。
それは、次記事のお楽しみということで、
今日は画像なしの法話です。
道樹録や折中録などに出てくる「婆子焼庵」という公案について、皆さんの力をお借りして
解決法を探求したいと思います。
まずは、原文から・・・
『昔、婆子あり、一庵主を供養し二十年を経たり、常に一人の二八女子をして飯を送って給持せしむ。一日女子をして主を抱かしめて曰く、正に恁麼の時如何と。主曰く枯木寒巌に倚る三冬暖気無し。女子婆に挙似す。婆曰く我れ二十年祗箇の俗漢に供養せしかと。遂に遣出して庵を焼却す。』
普通に訳すと・・・
ある老婆が、一人の修行僧を世話をして20年が過ぎました。いつも、ひとりの少女に食事を届けさせ仕えさせていたのですが、ある時その16になる少女に修行僧に抱きつき誘惑するように言いつけました。
少女は修行僧に抱きつき「さあ、どうしますか?」とささやきました。
修行僧は「枯れた木が寒い岩に立つように私の心は熱くなりません。」と言って少女の誘いを断ったといいます。
少女からその報告を聞いた老婆は「私は、二十年もこんな俗物に供養してきたのか!」と怒りだし、庵を焼き払ったというのです。
もし、皆さんが誘惑を受けた時はどうしますか?
真面目に誘惑を断った、いわば模範的な修行僧は、庵を追い出されてしまった。
もし、誘惑されていたらどうなったのでしょう?
おばあさんの真意はどこにあったのか?
いろいろ想像すると面白い公案でもあります。
山寺日記ですので、自由な発想でコメントを入れてくれればうれしいです。
今日の福島県は寒くて炬燵に火が入っていました・・・
-解答編は10月11日、夜10時頃公開予定です。-
2009-10-10 21:56
nice!(0)
コメント(48)
トラックバック(0)
先日、メールの返事を頂き、ありがとうございました。秋の山の風景は見たいものです。^^
面白い問題ですね。誘惑を受けた時は、まず自分の目的を確認する。目的によって行わればいいと思います。
もし誘惑されていたら、老婆はたぶん「私は、二十年もこんなスケッペに供養してきたのか!」
もしかして老婆はツンデレ?! 修行僧に好意を持って、なかなか言い難くてだから20年も供養した。でも合う勇気がなくて、自分の感情を娘に託した。
by 計 (2009-10-11 00:02)
私だったら…
何の迷いも苦悩もなく誘いを断れるような
あるいは、誘った少女の気持ちをまるで斟酌しないような
固い心の持ち主だったのか! と、ちょっとガッカリするのかな。
でも“俗物”というのがよくわかりません。
by ぱふ (2009-10-11 03:21)
ええ~?
おばあさんの真意がわかりません。
この修行僧は、誘いを断ったのに俗物なんですか?
分からないな~。
20年間一人の少女に食事を届けさせて、その娘が16歳と言うことは、この娘さん、2代目ですかね?(笑)
どういう教訓なのか、宗男にはよく分かりませ~ん。
by あおい君と佐藤君と宗男議員 (2009-10-11 04:34)
これは16歳の少女が僧侶にばあの命令でだきついたのですね。
まだ少女の心も体も燃えない年齢ではとおもいますが?
婚姻もすんでいない関係で僧侶が立派なのに??
婆の心がわかりません
そしてこしょうに話しかけるにははやすぎるともおもいました。
by うしさん (2009-10-11 04:40)
早速、いろいろ興味深いコメントが入ってきてますね。
ありがとうございます。もちろん、定説になっている解答はあるのですが、答えは数限りなくあるはずですので、大胆な発想で、お坊さんでは考えもつかない斬新な解釈を示してくれれば嬉しいです。
お婆さんのキャラクターも作って貰ってけっこうです。
by 袋田の住職 (2009-10-11 05:07)
修行僧の立場で考えると、どんな教えを受けてきたのか一般人には分かりませんので、一口には言えません。
老婆のたちばは・・・なんとなく分かる気がします。
by せつこ (2009-10-11 06:37)
その場は断っても煩悩が抜けず、
自暴自棄になって僧を辞める・・・かな?
あくまで少女の設定なので、これが綺麗なおねいさんだったら
どうなるかわかりません。(汗
by たいへー (2009-10-11 07:47)
休日の朝から、悩ませますね。
20年も何やってたんでしょうね。。。
婆も、いまさら、何に期待をしたんでしょうかね。。
by いわもっち (2009-10-11 08:14)
老婆は、20年間修行僧を世話した。そして、娘は16歳。ここに引っ掛けがあるようにも感じました、すなわち、時系列からして、この娘は修行僧の子供だった可能性がある。とすると、この娘の誘惑は男女の誘惑でなく単純に父に対する甘え(性的な感情は無かった)。そうするとこの父親は、娘に対して非常に冷たい態度をとったことになります。この態度に老婆は怒ったのかもしれません。(すべて私の思い込みです^^)。
by Krause (2009-10-11 08:34)
修業の道として正しいと思いますが、何を試したのかな老婆は?
by 侘び助 (2009-10-11 08:57)
最初の感想は「ん?なんで婆さんは怒ったのかな?」でした。
婆さんにとってお気に入り(タイプ)の僧であり、なんとか身内になってもらおうと少女(婆さんの孫)を使って縁戚関係を持とうとしたが・・・というストーリーを考えました^^;
by マリンかもめ (2009-10-11 09:00)
禅問答はシンプルで複雑、答えも不可解、所詮縁なき衆生には分かりません。
by SilverMac (2009-10-11 09:19)
浅はかな自分ではありますが、思うところを書いてみます。
おばあさんが20年もの時間を費やして修行僧の世話をしてきた思い。
その世話を一人の少女を通じて受けてきた修行僧の思い。
その思いが合致しなかった。
おばあさんが怒ってしまったのは、20年もの施しに対する答えとして期待していた修行僧のリアクションが違っていた。
私は、修行僧に対しておばあさんが勝手な期待をしてしまったこと、見込み違いな期待をしてしまったことに、「親心子知らず」みたいなことを感じました。
by ぱぐぱぐ (2009-10-11 11:03)
難しいですね。
少女の誘惑を自分は性的な欲求はないから」との理由で断った事が
老婆は気に入らなかったのでしょうか?
少女の誘惑が自分の意思によるものではない事を見抜き、
自分を大切にするように説けば、老婆が怒る事はなかったのかもしれないと
思いました。
by 青い鳥 (2009-10-11 13:07)
ご訪問 & nice ! ありがとうございました。
by ビアンカ (2009-10-11 14:27)
奥の深い話ですね。さて、自分とすればどのような態度にでたのか。
by 水郷楽人 (2009-10-11 15:37)
難しい問題ですが、老婆から見れば修業を20年させ、成果を試したところ、
枯れた木=覇気が無い、人の威厳が無い、そんな表現が気に入らず、、。俗物=威厳の無い、修行の足りない様で使ったと思います。なんの為に面倒を見てきたかもう少し僧として成長し、毅然とましな断り方表現ができないのか残念だったのでしょう。また、面倒をみることで成長を妨げているとも思ったでしょう。
修行僧から見れば、寒い岩=心の無い状態を表現したのでしょう。心の無い誘いでは私は枯た木のように、精気が起きないと謂いたかったし、「くだらない誘いで私は修行を捨てませんよ」、と謂いたかったのでしょう。
修行僧が、成長した様をみせ、毅然たる態度、且つ、娘を傷つけない表現をすれば老婆は喜んでさらに面倒をみ、修行を助けたのでは、いずれにしろ、相手を試したり心が通じあっていないことが問題ですね。
by fuzzy (2009-10-11 16:21)
難しい問題だ。。。これが禅問答というものですか。
それがしのモットーは、“今を生きる”ですから、当然誘いは受け入れますよ。
来るもの拒まず、去る者追わずデスから。
後悔とかは、いろいろ行動した後で、考えます。メンドくさいですから・・・
当然、失敗ばかりの人生です。でも、今を生きてれば、面白いッスね。
by ノリパ (2009-10-11 18:14)
修行僧さんが相手の気持ちを考える優しさを
持ち合わせていれば良かったのでしょうか?
自分のことしか見えないような行動のように感じますよね。
それにしても、この老婆ただ者ではないかも・・・
by ☆kangeki☆ (2009-10-11 18:40)
計 さん 老婆もこの修行僧がよっぽど気にいって20年も面倒をみていたのでしょうね。その見方は間違いないでしょう。
ぱふ さん ちょっとがっかりするぐらいですよね・・・
それが、どうして庵を焼くまで怒りがこみ上げたのか?
わたしもわかりません・・・
この気持ちは女性の方がわかるかもしれませんね。
あおい君と佐藤君と宗男議員 さん 2×8で16歳となるのですが禅宗ではよく使う数え方です。
素直に28歳とよめば年齢は会います。でも、女子と呼べなくなってしまいます。
きっと何代目かでしょうね・・・最初は老婆自身が行っていたとも考えられます。
俗物というよりは堅物ですよね!
うしさん 16歳という年齢が微妙ですね。現代でも結婚が認められる年齢です。
当時は、十分に結婚できた歳です。
それにしても、婆さまの考えがわかりません。。。
せつこ さん 老婆の立場でみた物語を作ってください。面白いと思います。
たいへー さん 女性の誘惑というのは、うれしいものですが、こわいこともありますし・・・
いわもっち さん 20年何をやっていたのか?
そうなんですよ。
次の記事に反映させていただきます。
Krause さん 親子だったいう説は斬新な発想ですね!
物語がふくらみます。
侘び助 さん 確かに正しい行動ですが、どうして老婆はここまで怒ったのでしょうね。
マリンかもめ さん お婿さんに迎えようとして断られたという話は使えそうですね。
by 袋田の住職 (2009-10-11 18:47)
SilverMac さん この公案は専門的な勉強をしてきた修行僧よりも
皆さんの方がわかるかもしれません。
ぱぐぱぐ さん コメントの意味よくわかります。
いずれにしても20年来の関係が実らなかったのは残念ですね。
青い鳥 さん 老婆は何が気に入らなかったのか!
そのあたりに解答がありそうです。
スポンサーを怒らせてしまったことからなった結果ですね。
ビアンカ さん nice!のみで失礼しました。
水郷楽人 さん 学生時代だったら飛びついていたかもしれませんね・・・
fuzzy さん 見事な解説ありがとうございます。
やっぱり、娘さんへの思いやり不足でしょうかね・・・
解答編の参考にさせて頂きます。
ノリパ さん 若いころなら、来るものは拒まずでしょうね!
失敗を重ねて、慎重になりました。
慎重すぎるのも考えもので、
ここは、一か八か今を生きる!でよかったのかも?
☆kangeki☆ さん この老婆は壮大な目標に向かっていた、
ただものでない老婆だったのかもしれません。
それを見抜く☆kangeki☆ さんもただものでないかも?
若い僧侶には解答編をみて欲しいと思っています。
by 袋田の住職 (2009-10-11 19:05)
20年という時の経過が糸口のような気がしますが。。。
16才ですから、最初は老婆自身あるいは、別の方が届けていたものと思われます。修行していながら、ずっと、その給仕をしていたことへの感謝の念がないとかそのような事を諭したかったのでしょうか???もっと難しい問題かな。。。
若い子が身を預けてきて、それに乗ってしまえば、通常は修行が足りないとなりましょうし、いずれでも不可かと。
もっと優しい返し方(断り方)、慈愛の念とでもいうのでしょうか、或いは自分の心に「彼女への愛情」の念があれば、その「思いだけ」を受け取るとか。いつまでも冷たい岩や枯れ木のままでは仕方ないでしょう、温かい春のような心も育てよというようなことを説いているのでしょうか?
一休さんの問答があったような気もします。。。
禅問答でなければ、自分なら誘惑に負け、確実にアウトだと思います・・・
by タケノコ (2009-10-11 22:00)
こんばんは。
立派な修行僧だと思います。
by yakko (2009-10-11 22:09)
修行僧の立場から。限りなくきれい事の解釈をしてみます。
老婆は修行僧がたいそうな高僧になると見ていた。
そこで、娘を一緒にさせたいと思っていた。が、修行僧には一途に想う女性がいる。
老婆の策を見抜いた修行僧は、その女性への操を立てる意味でも、娘の誘いを冷たい言葉で断つ。
思い通り叶わぬ老婆は、逆上のあまり俗漢とののしり庵に火を放った。
後に高名な僧となる、若き修行僧のぶれない姿です。
教えてくれるのは、
「八風吹けども動ぜず」
「随所に主と作れば立処皆真なり」
修行とは、大切なものを失うほど厳しく、我が身を犠牲にする事ですよ。
by kaisersd (2009-10-12 00:25)
畑に行ってるうちに禅問答が(@@;
私、自分の意志や規律の順守で心身を戒めるのって、悟っていない証しではないかと愚考しているんです。内なる抑えなくてはいけないモノがあると認識しちゃっているわけだし。たしか辿りつくべきところは「無」でいいんですよね。無ならば、自身をどう置いても揺るがないはず。肉体は天から与えられた仮の入れ物、その肉体を欲するものがあるなら、与えていいのではないでしょうか。心が無ならば規律には反したと感じなくてもいいはずなんだけど。まあ、仮の借りものなので「殺したい」「心臓を食わせろ」「毒見しろ」みたいな要求は拒否しなくちゃいけないでしょうけど(笑)
あんぱんマン、えらいかも。
by ぽとす (2009-10-12 00:50)
僧の立脚点が違いますね。
仏に仕えて修行する身なら、仏の教えでもって教え諭すべきで、冷たく拒絶するというのはまだ自分の視点になっていますね。
ただ、それだけでは老婆が庵を焼き払う動機付けとしては弱い。娘を諭した上で老婆はその策略を見抜いて欲しかったのではないかと思います。
「この程度の計略も見抜けず、20年もやってまだ自分にのみ視点があるのか」と失意したのかも知れませんね・・・。
by テレマーカー (2009-10-12 05:22)
少女は単に命令に従っただけでしょう。やはり、他の人より遥かに徳の高い僧になるかと期待していたのに、20年も修行して、上辺に惑わされて防御に走り慈悲も示せず凡庸な反応しただけかいと言う事じゃないかって気がします。
by sony (2009-10-12 07:12)
・・・あ、答えを先に読んでしまった・・・(^^;
by moonrabbit (2009-10-13 03:14)
タケノコ さん 枯木寒巌に依るという修行の中に春風のような心の暖かさがあればうまくいったのかと思います。
yakko さん 確かに修行態度は立派でしたね。。。
kaisersd さん この修行僧は老婆のもとを離れることにより立派な僧侶に成長できたかもしれませんね・・・
ぽとす さん なかなか奥が深いコメントですね。
戒律で自分を縛っているうちは本物でなく、
自分の行いがそのまま戒律の心にかなっているのが理想かも・・・
テレマーカー さん 燃すほどこともないのではと思いますね。
なにが、そこまで老婆を怒らせたか私にはなぞです。
sony さん コメントありがとうございます。世代によって性別によってもいろいろな考えができるかと思います。
いろいろな考えがあるのがブログの面白さかと思います。
ラビさん 答えを読んでも正解は出てませんので安心を!
というか、いったどうしたら良かったのかだれもわかりませんよ・・・
by 袋田の住職 (2009-10-13 13:10)
あ、次の記事も読んじゃいました( ̄▽ ̄;)
私がもし修行僧だったら、16歳の娘っ子に抱きつかれて「好きです」なんて言われたら、まずは極度に狼狽しますね。ロリコンかもしれませんが、16歳の少女ならよほど不細工じゃない限り、ドキッとするような「色香」とまでは言わないけれど魅力は誰でも持っていると思います。
ヘタをすれば股間が膨らんじゃうかもしれません(爆)
でも、まあ、次には自制心とか社会的な倫理とか自分の立場とか、修行の意味だとか、、、とにかくいろんなことが頭の中を駆け巡って、たぶん「あ、こりゃマズいよ、破戒だよ」みたいな自己防衛機能が働くでしょう。で、結局、、、たぶん、、、美味しくいただいちゃうじゃないかと(昔は16歳ならもう大人扱いだったでしょうから)。
そのことの是非が宗教的にどうなのかは分かりませんが、お婆ちゃんが修行僧に怒りを覚えたのは、きっと「心が冷えきっている」と少女に告げたことに対してじゃないのかと。「無心、無我の境地」と、うら若き女性の誘惑に対して心が動かない(パッションがわき上がらない、もののあはれを解さない)ような人間=俗人とは、似て非なるものがあるのではないでしょうか。そこに老婆が落胆し、怒ったのではないかと思いました。
by Tad (2009-10-13 21:25)
Tad さんの コメントで老婆の心境が少しわかったような気がします。
抱きつかれた時のリアクションは似ているかもしれません。。。
私の方がもう少し臆病ですが。。。
by 袋田の住職 (2009-10-13 21:34)
袋田のご住職様こんにちは、カレニアンです。
遅くなりましたが、まだ解答(?)は見ていませんよ。^^
修行僧であれば女犯(にょぼん)は重大な戒律違反ですね。
でもこの場合、老婆が言い放った「俗物」が気になります。
私が思うに
娘への諭し方が、修行僧らしからぬ平凡な物言いに
老婆はとてもがっかりしたのではないのでしょうか。
なぜ自分を誘惑するのかとか、身の上とかを聞いて
仏の道をわかりやすく示しあげてもいいんじゃないかなと思います。
それをあっさり「燃えないからダメ」では
何のために修行をしておられるのかさっぱりです。
例えどんな人に対しても、隔てなく仏の道を説くことが出来てこそ
老婆の信じて使えていた僧侶だったのではないかな。
と私なりの解釈でした。
さて、それでは上の記事を読ませていただきますね。
by カレニアン (2009-10-13 22:30)
カレニアン さん 深い考察ですね。
修行僧がこのあたりのことをわかっていたら
違う展開になっていたかも?
by 袋田の住職 (2009-10-14 22:40)
私がその僧侶だったら、遠慮無く抱きます。
その事で後で咎められるようなことがあれば
「お釈迦様も昔は結婚して子供をもうけた。
私が娘を抱いたのも仏になる前のことだ」と言って笑います。
by ユング1990 (2011-02-13 07:39)
ユング1990 さん 遠慮がないというのも良いことですね。
私は、なかなかそのふんぎりがつきません。
by 袋田の住職 (2011-02-13 07:42)
自分なら困った顔をしてずっといるように思います。
by k (2012-11-08 15:42)
Kさん 私もたぶん、どうしたらいいかわからず困った顔をしてしまうと思います。顔にすぐ出るタイプなので・・・
by 袋田の住職 (2012-11-08 18:07)
だいたい、ばあさんから拘束される心が生じたら、いたたまれなくなって家出しちゃいます。また、自分の言葉が嘘っぽく感じたら、追い出される前に逐電します。
この手のばあさんは苦手中の苦手です。偉そうに言いながら、浅くって褒められても、こちらが恥ずかしくなり自分がニセモンだと思い知らされます。
ホントにこれ、考案なんですか?
by なお (2014-02-25 23:42)
解答:
「婆子焼庵」は3つのレベルで解くことができる。
1)修行者の立場で解いて、預流の機縁とするもの
2)老婆の立場で解いて、布施・供養の功徳とそれを行なう狙いを説明し、同時に修行者の心得を体得せしめるもの
3)修行者の立場で解いて、修行者の正しいあり方と、心解脱の認定をはかるもの(理趣経の立場)
もちろん、安らぎ(=ニルヴァーナ)を求める人は、敢えて3)の立場で解くべきであるが、もちろん先だって正しい心構えを確立していなければならない。
さて、「婆子焼庵」の公案を最も高度に解くと、理趣経の立場で解くことになる。もちろん、これは覚りではない。すなわち、「婆子焼庵」の公案の限界点がここにあ るということである。これとほとんど同じ位置にSRKWブッダの「医師と患者の公案」があり、その先に(久松真一氏の)基本的公案の真解がある。
この意味においては、理趣経を経典とせず、釈(大師の立場で説かれた理法)と考えるのが適当だろう。この〈理趣釈〉では菩薩の一つの立場を明確にしている。すなわち、菩薩が世俗と関わったときにどうするか? という問題である。
***
by SRKWブッダ (2014-07-12 23:04)
SRKWブッダ さん それぞれのレベルに合わせた解釈と解答があるのですね。
コメントありがとうございました。
by 袋田の住職 (2014-07-13 08:55)
1)の立場による回答
修行者は、どんなことがあっても修行に勤しむ心を正しく保たなければならない。それが確立されているかどうかが修行の要諦である。そこで、娘への返事はたとえば次のようになるだろう。 『あなたの気持ちは嬉しいし、実際に心地よい。それを承知の上で、しかし、私はどうしてもこのまま修行を進めて覚りたいのです。』
2)の立場による回答
この場合、老婆が主人公である。修行僧、娘、老婆はそれぞれの立場をまっとうしなければならない。すなわち、修行僧は修行の完成を、娘は修行僧の誘惑を、老婆は供養の果報を得なければならない。ただ、この公案ではそれが失敗した場合の逸話を語り、成功した場合にそれぞれの立場が皆完成することを示唆している。
さて、老婆は仏教では女性は覚るのが難しいと聞いた。しかしながら、供養すればそれが功徳を積むことになり、いつかは仏になれるとも聞いた。そこで自分の供養の果報を確かに得ようと考えた。ここで適当な僧、適当な寺を供養するのもよいが、それでは確実に果報を得ることはできないだろうと考えた。そこで、せっかく供養するのであるから仏を供養しようと考え、仏がいないなら、仏を自ら作り出すことを思い立った。上手く行けば修行の庵は廟となり、さらに利益(りやく)を生むだろう。また、そのような仏の廟で願えば、叶わぬ願いは無いだろうからである。少なくとも法華経などではそう説く。
まず、仏になりそうな修行僧を探すところから始めた。そして、一人の僧に目を付けた。彼に草庵を与え、供養して、修行が進み、熟すのを待った。20年という歳月は赤ちゃんが大人になるに充分な時間である。もう充分供養になっただろう。後は大事を演出して僧が仏になるのを見届けるだけだ。もちろん、一発勝負。彼が仏になるチャンスは一度きりだ。
娘に『正与麼(しょうよも)の時如何(いかん)』と言わせ、これが仏になれるかどうかの大事な局面だと匂わせた。が、どうやら失敗したようだ。彼はまったくの俗物であり、ついに仏とはならなかった。庵を廟にする計画もご破算だ。老婆は僧を追い出し、廟とはならなかった草庵を焼いた。ここは俗物の巣窟にすぎない。
ここで老婆が演出しようとしたのは、釈尊がスジャータの乳粥を受けて覚りを開いた局面だ。それを娘の誘惑に置き換えて演出したのだ。成功していたら、僧は仏となり、娘は善知識となり、老婆は自分の供養の果報を受けることができただろう。(日本の祭りも同じようなことを望んで為されている。)
なお、僧は自分が仏になれなかったらただちに供養を受けられなくなることを理解しておくべきだった。その覚悟あっての修行なのである。布施・供養する人は、伊達や酔狂でそれを行っているわけではないからである。
3)の立場による回答
この場合、修行僧が主人公である。シチュエーションは2)と同様であるが、重要なポイントは修行僧が仏になる機縁をこの世の何にでも求めようとする気持ちを確立していることである。たとえ女犯を冒す危険があっても、それを敢えて恐れず覚りの機縁とする心構えが必要である。理趣経に言うように、この世のさまざまな快楽もまた覚りの機縁となり得るからである。覚りの機縁を予め狭めてしまうのでは、戒律など修行の邪魔以外の何ものでもないだろう。もちろん、戒律が不要だと主張するのではない。
***
by SRKWブッダ (2014-07-13 18:24)
SRKWブッダ さん 大変参考になります。禅問答は奥が深いですが、一般の方に興味を持って解いて頂けると、人生が深まると思います。何より、実践が大事だと思います。
by 袋田の住職 (2014-07-13 19:27)
言い方が悟った人の物言いではないと思いました。
この言い方だと20年も修行しなくても、ちょっと堅物の凡人でも言えそうですよね。
凡人でも20年世話になってる人の娘に手を出す人の方が少数派かと思います。娘が赤子の頃からずっと可愛がって兄の様に父の様に接していたはずですから。
修行僧は当然、娘が老婆の差し金で自分を試す為に誘惑しに来たことは看破していると思いますし(それも分からないようなら修行の甲斐が本当に無いですね、ただの残念な人です)それなりの言い方があったのではないでしょうか。
私なら(ただのニートの意見として笑い飛ばして下されば幸いです)まずは日々世話になっている感謝を述べたいですね。その上で一切の失礼の無い様に丁重にお断りをしますね。この僧の言い方はちょっと失礼すぎます(笑)
この言い方だと枯れた木が僧を意味して寒い岩が娘を意味しているとも解釈できますからね。寒い岩だと言われて腹を立てない女性はいないと思います。
by 通りすがり (2014-07-19 15:17)
通りすがりさん、読んでいただきありがとうございます。コメントも興味深いものでした。
by 袋田の住職 (2014-07-22 21:36)
この公案は、南泉斬猫と同じもの。
猫を斬らずともやがて猫は死ぬもの。
庵も焼かずともやがて娘と共に朽ち果てるもの。
飯を食ったら鉢を洗っておけ。そういうことです。
無心の世界は一切皆空でありながら、しも、です。
これを、人のはからいや分別知で見ると変なことになります。
これを、あえて分別するなら、
この僧侶はまちがっていません。僧籍にあるかぎり戒律があるし、生きた不動明王は痩せ我慢なのだから。また、居士となって妻帯することも自由です。それでも一黙声雷の如しはありうるのです。
ただ、どの道を選んでも庵は焼ける。
いくら焼けても焼けない庵に、不会底の僧侶は無住にして住むのです。
by 無名 (2015-06-24 06:50)
無名 さんコメントありがとうございます。
by 袋田の住職 (2015-06-24 13:43)
1)実は少女はブサイクだった。だから修行僧の心は動かなかった。老婆は娘の心まで見ようとしない修行僧の事を許せなかった。
2)小乗の悟りである灰身滅智を、大乗の悟りである煩悩即菩提の見地から否定した、逸話のひとつ。
3)修行僧の態度は、人間の男としては不自然である。老婆はそこに囚われと不自由さを観た。だから庵は焼かれてしまったのだ。
by 清濁 (2015-10-20 00:35)
こんばんは。
お婆さんは、20年の歳月をかけても悟れない修行僧に幻滅し庵を焼いた。
これからも悟ることはないだろうと…。
悟った方なら抱きつかれても囁かれてもそのままです。何故なら五感からの情報は遮断され想い(妄想)を動かしません。言葉や概念でない無分別の空と化した心の有り様だから、妄想など生まれる余地がないのです。
娘は無反応な修行僧を訝しがって離れます。
by こんせん (2017-01-27 21:12)