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① 祇園寺開祖東皐心越禅師と光圀 その1 (開山廟編) [水戸]

今日(9月30日)は水戸の祇園寺さんで、開祖東皐心越(とうこうしんえつ)禅師の開山忌法要(東皐忌)が厳修され御随喜(ずいき-法要のお手伝い)してきました。

今年から、末寺、法類、親類寺院で法要を勤めることになり、檀家の役員さんや関係者の皆さんが招かれました。法要後、開山廟をお参りし、松村一徳先生の講演を聴き、坂田進一先生により、心越禅師が伝えた七弦琴についての講演と演奏が行われました。

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↑ 光圀公が心越禅師を水戸に招いて建てた祇園寺の本堂です。

心越禅師は(1639~1695)は中国浙江省に生まれました。中国曹洞宗寿昌派で修行を重ね、1670年32歳で印可を興儔(こうちゅう)の法名を与えられ曹洞宗35世となり、杭州西湖山中の永福寺の住持となりました。



当時、中国では清により明が滅亡し、明の遺臣による復明活動の戦乱のさなかでした。
(鄭成功がモデルになった「国姓爺合戦」の時代。)

明の復興の望みを絶たれた心越禅師は、曹洞宗寿昌派に伝わるものや文化的なもの(後述する七弦琴十面を含む)を持参したが、その量は心越が乗りこんだ船の半分を占めたと云われています。



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↑ 心越禅師のご廟所です。

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↑ 光圀公が亡き心越禅師を慕って詠んだ漢詩の石碑です。
心越禅師への光圀公の思いの強さが伝わってきます。

1676年に杭州をあとにし、翌年正月に長崎に到着した心越でありましたが、当時すでに、明より渡ってきた黄檗宗が勢力を伸ばしていて、曹洞宗系の心越禅師は遇せられず、数年にわたり長崎で幽閉状態となっていました。

その窮地を救ったのが水戸黄門こと徳川光圀でした。

徳川綱吉の将軍継承に功があり、幕政に多大な影響力を持つようになった光圀は、幕臣を説得し、心越禅師の幽閉を解かせ、小石川の上屋敷に迎えたのです。

心越禅師は1688年に水戸へ移り、元禄8(1695)年の示寂まで、水戸で過ごすことになったのです。

光圀は心越のために佐竹氏の菩提寺であった天徳寺を明代寺院様式に改築し、元禄5(1692)年10月に開基徳川光圀、東皐心越禅師を開山として、寿昌派岱宗山天徳寺の開堂式を曹洞宗関係を中心に1700人の僧侶を招いて盛大に行ったそうです。

20年後の正徳2(1712)年、曹洞宗寿昌派総本山祇園寺と公称し、末寺三十余を誇る大寺院となりました。
祇園寺と改称したことにより、曹洞宗天徳寺は河和田村(現水戸市河和田町)に移転になりました。

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↑ 明治時代中ごろまでは、禅宗寿昌派総本山だったので歴住墓地の墓石には本山○世と刻ざまれています。

光圀は明より招いた儒学者朱瞬水を通じて世界情勢を知っていましたが、心越禅師との交流を通して、最新の中国文化に接することができました。

そうして得た先進的な時代感覚は、水戸藩内で受け継がれていき、やがて水戸学として大成し、
幕末から維新にかけて日本をリードすることになるのであります。

光圀公は水戸黄門としてのイメージが強いですが、実際の光圀は江戸時代を代表するような名君であり、
人間としての度量も備えていた魅力的な人でした。

冲方丁(うぶかたとう)著「光圀伝」を購入しました。

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↑ この本を読むといかに光圀公がすごい人であったかわかります。
 
思ったより分厚い本で読むのが大変そうです。

いろいろな本で、徳川光圀公の事は知っているつもりですが、さらに理解を深めたいと思います。

東皐忌法要の行われた午前中は台風の影響もありませんでしたが、夕方になって時より強い風が吹くようになりました。台風の備えは終わりました。
被害が少ないことをご祈念しています。

② 祇園寺開祖東皐心越禅師と光圀 その2 (日本篆刻の祖としての心越禅師編)につづく・・・


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U3

光圀が始めた大日本史しか知りません。
by U3 (2012-09-30 18:15) 

斗夢

光圀公は水戸藩のお殿様なんですよね。
黄門様のイメージが強くて、殿様だったとは思えません。
by 斗夢 (2012-09-30 19:11) 

ゴーパ1号

面白そうな本ですね!
by ゴーパ1号 (2012-09-30 20:36) 

スミッチ

光圀公は先進的な時代感覚を持った人であったんですね
by スミッチ (2012-09-30 21:16) 

侘び助

黄門様のイメージが強いけれど立派な方と想像ができます。
ニュースよりは静かに台風は去ってゆきました。
by 侘び助 (2012-09-30 23:00) 

ミッチー

仏教やお墓のことは何もわからないのですが
結婚するときに夫が言いました。墓を見たら先祖がわかる。
でも夫の家は昔からの侍それで墓の名前はふたつある。たとえば益之丈鎌足とか。しかし私のほうは。豪族から苗字帯刀を許された侍
先祖の墓を探しても名前が二つあるお墓はなかったです。
by ミッチー (2012-10-01 15:02) 

kazoo

光圀公と心越禅師の関係は興味深いです。杭州西湖と聞くと、1977年訪中団の一員として、中国科学院の招待で、初めて中国を訪問した時に訪れたところなので、懐かしくもあります。
by kazoo (2012-10-03 00:18) 

袋田の住職

U3 さん 幕府でも、朝廷でもない一つの藩が日本の歴史書を編纂するといった大偉業を成し遂げたのですからこれはすごいことです。

斗夢 さん 正確にいうと、権中納言になったのは藩主を引退してからですので水戸黄門と呼ばれるのは隠居後ということになります。
光圀という字も、藩主時代は光國でした。

ゴーパ1号 さん 光圀公に関するいろいろなことがわかります。

スミッチ さん 頼房公の教育方針にも寄りましたが、ブレーンに恵まれたともいえるでしょう。

侘び助 さん 台風の被害もたいしたことなくてよかったです。

ミッチー さん 僧侶の墓は独特ですね。特に江戸時代は転住による移動が多かったので、世代墓として何ヶ所にもお墓がある場合が多いです。

kazoo さん 私は12年前に西湖に行きました。禅宗系のお寺が多かったですね。文化大革命で壊されたのが修復されてきれいになってました。


by 袋田の住職 (2012-10-03 09:26) 

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