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額田城と鱗勝院-那珂市額田城跡を探訪してきました。- [日本の城]

今日は、龍泰院だより第63号の編集作業を何とか終わらせたところです。

教育委員会委員長職務代理者として、会議で出張してきたので、ちょっと足を伸ばして額田城跡を探訪してきました。

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↑ 額田城の西に位置する額田氏の菩提所鱗勝院です。

この写真からもわかるように、額田城の城郭は南を沼地に北を久慈川が囲むようにしているので、
騎馬はもとより、歩兵も足をとられて攻めずらい天然の要害です。

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↑ 北側の額田幼稚園方面から入る道もありますが、阿弥陀寺に車を置いて向かいました。

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↑ 阿弥陀寺と額田城の本丸は堀と土塁を挟んで東西に分かれています。

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↑ この道を下っていきます。


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↑ 土塁と、堀があり、その先が本丸です。

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↑ 堀割の中を北へ歩き、二の丸経由で本丸へ向かいました。

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↑ 二の丸から本丸を撮影しました。

土塁と堀の城は地味ですが、これが佐竹一族の城郭の特徴で、水戸城の築城、さらには秋田の久保田城でも採用されています。

土塁や堀でも、けっこう防御機能は高かったそうです。

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↑ ここを上ると本丸です。

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↑ 本丸から撮影しました。左手北側が二の丸、右手南側が本丸です。

詳しくは、那珂市教育委員会の説明をご覧ください。

つい最近まで、ゴミ捨て場と化していたそうですが、歴史に憧憬が深い地域の方が整備したそうです。
鎌倉時代から戦国時代まで350年続いた額田城は幸い崩されずに土塁や堀が残されています。

整備されているグループのウェブサイトもご覧ください。

さらに、最近、伊達氏が額田城の城主に佐竹本家を裏切り、内応するようにそそのかす手紙が家臣の子孫の家から発見されたとニュースになってました。

佐竹氏が秋田へ移封となり、秋田へ鱗勝院は移され額田鱗勝院の末寺となり、佐竹氏の信仰を集め隆盛します。

額田鱗勝院も、将軍徳川家光や水戸徳川家の外護を受け現在まで法灯をつないでいます。

大子町にも佐竹支族が築城した山城跡がいくつも残っているので、整備したいものだと思っています。

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コメント 6

弁慶

心ある方々の手で整備されたのこと。
綺麗な散策路が整っていますね。
歴史的な遺構が地元の人々の手で生き返るのは素晴らしいことです。

by 弁慶 (2013-07-04 06:32) 

たいへー

綺麗に整備されてるなぁ。。。
by たいへー (2013-07-04 07:24) 

okko

確かに攻め難い地形に建っていますね。散策には気持ちよさそう。
by okko (2013-07-04 11:44) 

せつこ

綺麗に整備され藪になってませんね。
by せつこ (2013-07-04 13:18) 

袋田の住職

弁慶 さん いままであまり注目されてこなかった戦国時代の遺構ですが、このようにきれいになると立派な地域の財産になりますね。

たいへー さん 遊歩道も木製チップで歩きやすく整備されていました。

okko さん 土塁は意外と攻めづらいようです。しかも、周りは低湿地や川ですから・・・

せつこさん 薮もきれいに刈り払われ、ゴミを捨てる人もいなくなりました。
by 袋田の住職 (2013-07-05 06:05) 

F・SUZUKI

私は現在水戸徳川家の経歴について関係書類を検索しております。
額田城は水戸徳川家が水戸城に入城する前に落城、廃城となっておりました。徳川中納言光圀公が藩主になった頃は、まだ佐竹一族の影響が色濃く残っていて、それを排除するために当時としての施策をかなり実施したように思われます。額田城内の住民は当時佐竹家よりの思想を色濃く持っていたのではないでしょうか。その為、光圀公はそれを排除するため、額田神社を鹿島・八幡神宮の合祀神社とし建立しました。
本篇とは関係のない話になってしまいましたが、現在額田城保存会を中心に額田地区自治会の有志を募り、額田城跡の清掃、保存に尽力しております。城跡に興味のある方は、是非活動にご協力を賜ればと思います。どうぞよろしくお願いします。

by F・SUZUKI (2015-12-12 01:00) 

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