佐竹氏の軍事拠点として、月居城の役割を考察する [日本の城]
まずは、月居城からの眺めをご覧ください。
↑ 今は木立に覆われている山頂部ですが当時は、切り払われていたと思われるので、一年中、眺望があったと思われます。
↑ 1520年代に佐竹系の寺院となった上金沢の常明寺が見えます。
↑赤い丸が龍泰院 、青い丸が大子城、黄色い丸が常明寺,緑の丸が塙にあった依上城のあたりです。
月居城で狼煙を上げれば大子町中(依上保)に知らせることが出来ていたと思います。
その証拠に・・・
↑ 遥か遠く、南の方でたき火の煙がみえました。
↑ 上小川地区から、川を渡った南側にあった「館城」付近から上る煙がよくみえます。
久慈川が大きく蛇行し、三方を川に面した断崖、西側には山が迫る天然の要害です。
↑ 常明寺より10年ほど遅れて佐竹系の寺となった龍泰院は目の前です。
↑ 袋田の下津原です。ここには佐竹氏の金山があった重要な拠点です。
↑ 月居観音の鐘撞堂です。鐘や法螺貝を使った通信も行われていたことでしょう。
↑ 月居古道の鞍部は木々が黄色く色づいてきれいでした。
↑ 山頂の南側のモミジも、終盤でした。
↑ 山頂の平坦部の一番南側です。
メジャーで測ったら、南北方向は、一段目が10m二段目が10m、三段目が30mほどありました。
東西方向は一段目の広いところで20m、二段目は10m、三段目は10~15mでした。
山上の砦としては、けっこう広い敷地があり、鞍部の光明寺や生瀬側の山麓の居住部などとあわせると、
月居山は十分な規模を持った軍事拠点であったと考えられます。
↑ 今は木立に覆われている山頂部ですが当時は、切り払われていたと思われるので、一年中、眺望があったと思われます。
↑ 1520年代に佐竹系の寺院となった上金沢の常明寺が見えます。
↑赤い丸が龍泰院 、青い丸が大子城、黄色い丸が常明寺,緑の丸が塙にあった依上城のあたりです。
月居城で狼煙を上げれば大子町中(依上保)に知らせることが出来ていたと思います。
その証拠に・・・
↑ 遥か遠く、南の方でたき火の煙がみえました。
↑ 上小川地区から、川を渡った南側にあった「館城」付近から上る煙がよくみえます。
久慈川が大きく蛇行し、三方を川に面した断崖、西側には山が迫る天然の要害です。
↑ 常明寺より10年ほど遅れて佐竹系の寺となった龍泰院は目の前です。
↑ 袋田の下津原です。ここには佐竹氏の金山があった重要な拠点です。
↑ 月居観音の鐘撞堂です。鐘や法螺貝を使った通信も行われていたことでしょう。
↑ 月居古道の鞍部は木々が黄色く色づいてきれいでした。
↑ 山頂の南側のモミジも、終盤でした。
↑ 山頂の平坦部の一番南側です。
メジャーで測ったら、南北方向は、一段目が10m二段目が10m、三段目が30mほどありました。
東西方向は一段目の広いところで20m、二段目は10m、三段目は10~15mでした。
山上の砦としては、けっこう広い敷地があり、鞍部の光明寺や生瀬側の山麓の居住部などとあわせると、
月居山は十分な規模を持った軍事拠点であったと考えられます。
2018-12-03 18:21
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コメント(2)
方丈様、想像力を掻き立てられるような記事でした。お忙しいのによく調べておられますね。
by 小林 カンイ (2018-12-05 18:49)
小林老師、岩櫃城など、真田系の山城はすごいですね!
実際に登ると見えてきます。
by 袋田の住職 (2018-12-06 15:39)