覇王信長の築いた安土城跡の回りを散策しました。 [日本の城]
安土城といえば、なんといっても信長が築いた壮麗な天主閣です。
信長没後、間もなく焼き落ちた天主を今見ることはかなわず、想像するのみです。
この日は、6時半には安土に着き、歩いて向かったのですが、早く着き過ぎました。
↑ 大手門から大手道、このあたりには信長の家臣団の屋敷が並んでいたとそうです。
しかし・・・
信長没後、間もなく焼き落ちた天主を今見ることはかなわず、想像するのみです。
この日は、6時半には安土に着き、歩いて向かったのですが、早く着き過ぎました。
↑ 大手門から大手道、このあたりには信長の家臣団の屋敷が並んでいたとそうです。
しかし・・・
伊達政宗が生まれ、上杉景勝が住んだ米沢城 [日本の城]
米沢へ着き、早めの昼食をとり、雨が降りしきる中、米沢城を見学しました。
お城好きの私にはうれしいコース変更でした。
実は、米沢には何度も来てますが、米沢城は初めてです。
↑ 上杉神社へと向かう長い参道です。
お城好きの私にはうれしいコース変更でした。
実は、米沢には何度も来てますが、米沢城は初めてです。
↑ 上杉神社へと向かう長い参道です。
②大御所様の隠居城「駿府城」へ登城しました-その2ー(本丸編) [日本の城]
前記事の続編です。
二の丸堀を渡り、二の丸へ入っていきます。
今は、埋め立てられ、本丸と二の丸が一体となる広場となってますが、以前は、本丸も堀で区切られ、
三重の堀で守りを固めていたそうで、現在は巽櫓の内側に、発掘された堀が一部見られます。
↑ 本丸にある、徳川家康像です。
二の丸堀を渡り、二の丸へ入っていきます。
今は、埋め立てられ、本丸と二の丸が一体となる広場となってますが、以前は、本丸も堀で区切られ、
三重の堀で守りを固めていたそうで、現在は巽櫓の内側に、発掘された堀が一部見られます。
↑ 本丸にある、徳川家康像です。
①大御所様の隠居城「駿府城」へ登城しました-その1ー(お堀と櫓編) [日本の城]
8月26~27日のこうしょうとの親子旅行の記事の二回目です。
26日の夜8時過ぎに、静岡のホテルに到着し、外で食事をし、早めに寝ました。
翌日は午前5時に起床、5時半にホテルを出て、駿府城へと向かいました。
↑ 三の丸堀です。
26日の夜8時過ぎに、静岡のホテルに到着し、外で食事をし、早めに寝ました。
翌日は午前5時に起床、5時半にホテルを出て、駿府城へと向かいました。
↑ 三の丸堀です。
⑤福知山へお見舞いを届けに行って来ました。その5-(姫路城天守閣への道編) [日本の城]
今日は、午前中法事、午後2時からは大子警察署で会議でした。
そして、夕方は通夜、明日は法事三件と葬儀一件です。
姫路城の記事は、2回ぐらいで終わりにする予定でしたが、国宝で世界遺産の姫路城、
写真を整理していたら、紹介したい写真がまだまだあるので、もう少し続きそうです。
とりあえず、天守閣まで歩を進めましょう・・・
↑ 門があります。
そして、夕方は通夜、明日は法事三件と葬儀一件です。
姫路城の記事は、2回ぐらいで終わりにする予定でしたが、国宝で世界遺産の姫路城、
写真を整理していたら、紹介したい写真がまだまだあるので、もう少し続きそうです。
とりあえず、天守閣まで歩を進めましょう・・・
↑ 門があります。
④福知山へお見舞いを届けに行って来ました。その④-(姫路城西の丸編) [日本の城]
福知山まで行ったついでと言ってはなんですが、交通費も宿泊費も自腹ですので、
せっかくなので、姫路城へと足を伸ばしてみた訳です。
姫路城は、平成16年の今頃の時期に巡回先の姫路のお寺さんの案内で一度行ってます。
ブログを始める一年前だったので、記事として登場するのは初めてです。
それでは、憧れの姫路城の中へと歩みを進めましょう・・・
↑ 姫路城は広大な敷地を持っているので、ここからかなり歩きます。
せっかくなので、姫路城へと足を伸ばしてみた訳です。
姫路城は、平成16年の今頃の時期に巡回先の姫路のお寺さんの案内で一度行ってます。
ブログを始める一年前だったので、記事として登場するのは初めてです。
それでは、憧れの姫路城の中へと歩みを進めましょう・・・
↑ 姫路城は広大な敷地を持っているので、ここからかなり歩きます。
④会津に花満開の春が!(東北の名城 鶴ヶ城編) [日本の城]
今日(26日)は、午前中法事のお勤めがあり、午後からは、
大子町文化福祉会館まいんで大子町PTA連絡協議会の総会と研修会があり、
来賓参列してきました。
夕方からは、袋田温泉「思い出浪漫館」に移動しての歓送迎会でした。
今日も、会津の記事の続きです。
せっかく会津まで桜を観に行ったのですから、鶴ヶ城へ行かない手はありません。
なんといっても日本のお城と桜は似合います。
北で丸から入城しました。
↑ 堅固な要塞、枡形を通り・・・
大子町文化福祉会館まいんで大子町PTA連絡協議会の総会と研修会があり、
来賓参列してきました。
夕方からは、袋田温泉「思い出浪漫館」に移動しての歓送迎会でした。
今日も、会津の記事の続きです。
せっかく会津まで桜を観に行ったのですから、鶴ヶ城へ行かない手はありません。
なんといっても日本のお城と桜は似合います。
北で丸から入城しました。
↑ 堅固な要塞、枡形を通り・・・
常陸太田の若宮八幡と太田城を歩いてみました。 [日本の城]
3月28日、今朝6時の気温はマイナス0.2℃、日中の最高気温は、22.3℃でしたので、
一日の気温差22.5℃なった大子町、梅花講の練習の時の着物も春用のにしました。
さて、今日も昨日会議の後散策した常陸太田市の市街地の続編です。
太田は、かつて、守護大名、戦国大名として、この地で北常陸一帯を支配した佐竹氏の本拠地です。
北から南へ延びる馬の背台地が、古い市街地です。
↑ 台地のなかほど西端に若宮八幡宮があります。
このあたりは、舞鶴城とも呼ばれた太田城の城域です。
一日の気温差22.5℃なった大子町、梅花講の練習の時の着物も春用のにしました。
さて、今日も昨日会議の後散策した常陸太田市の市街地の続編です。
太田は、かつて、守護大名、戦国大名として、この地で北常陸一帯を支配した佐竹氏の本拠地です。
北から南へ延びる馬の背台地が、古い市街地です。
↑ 台地のなかほど西端に若宮八幡宮があります。
このあたりは、舞鶴城とも呼ばれた太田城の城域です。
小諸なる古城に立ち寄り・・・ [日本の城]
11月1日(金)長野県小諸市へ仕事で行ったついでに、小諸城へ立ち寄ってみました。
天文12年(1543)に武田信玄がこの地を攻略し、山本勘助らに命じて城を築かせたのが始まりと言われています。
徳川家康の勧めで織田方についていた依田氏、その遺児で家康から松平姓を与えられた康国その弟康勝が城主となりました。
その後、仙谷秀久が城主となり、今のような近世城郭を築城しました。
江戸時代は徳川幕府の譜代や親藩が入れ替わり城主となりましたが、
元禄年間に牧野氏が越後から入り、その後10代続いて明治維新を迎えました。
↑ 小諸駅を隔てて東側にあるどっしりとした大手門です。
天文12年(1543)に武田信玄がこの地を攻略し、山本勘助らに命じて城を築かせたのが始まりと言われています。
徳川家康の勧めで織田方についていた依田氏、その遺児で家康から松平姓を与えられた康国その弟康勝が城主となりました。
その後、仙谷秀久が城主となり、今のような近世城郭を築城しました。
江戸時代は徳川幕府の譜代や親藩が入れ替わり城主となりましたが、
元禄年間に牧野氏が越後から入り、その後10代続いて明治維新を迎えました。
↑ 小諸駅を隔てて東側にあるどっしりとした大手門です。