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寂円禅師の開かれた宝慶寺 [坐禅]

8月19日(土)朝から蒸し暑い袋田です。

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↑ 月居山と花壇のコキアです。

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↑ 男体山や長福山には朝霧がかかっています。

7月下旬の白山拝登明けの転役で、光尚は寳慶寺(宝慶寺)ほうきょうじへ派遣されたと報告しましたが、

今日は、どんなお寺かをご説明したいと思います。

と言っても、私は行ったことが無いので、詳しくは、光尚が修行を終えて戻ってきたらたずねてみて下さい。

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↑ 宝慶寺は福井県大野市の山の上に建っています。標高は500mあります。

このお寺を開いたのは、中国の天童寺で道元禅師と一緒に如浄禅師のもとで修行していた寂円禅師です。

如浄禅師が亡くなると、寂円禅師は道元禅師を慕って海を渡り永平寺へときました。

道元禅師が亡くなると、二祖孤雲懐奘禅師のもとで修行を続けてましたが、やがて、宝慶寺を開きそこに住まわれました。

永平寺で徹通禅師のもとで修行していた太祖瑩山禅師は、19才の時に諸国行脚へ出ることにし、

師の勧めで、まずは、宝慶寺の寂円禅師を訪ねたのです。

道元禅師のいた頃の禅風が残る宝慶寺で修行することになった瑩山禅師ですが、

真摯な修行態度が寂円禅師に認められ、維那という大衆を指導する役に就きます。

ある日、坐禅をさぼっている修行僧を見つけた瑩山禅師は、瞋恚の心が生まれ、修行僧を叩こうとします。

その時、観音様のような慈悲深い僧になりなさい。と、説く母の姿が目に浮かぶ、振り上げた警策をおろし、

涙を流して、そのことを悔い、その後は慈悲の聖者となられたというのが「太祖さまの涙の棒」といわれる逸話です。

比叡山や諸国を行脚し、21才で永平寺に戻られた瑩山さまは、徹通禅師とともに大乗寺に移り、

印可証明を受けました。27才の時です。

その後、瑩山禅師は、29才の時に阿波へと渡り、
城満寺を開き、多くの人々を教化し、大乗寺へと戻り、その後、大乗寺の二世住職になりました。

そのような由縁で、寂円禅師が開かれた宝慶寺を日本曹洞第二道場と呼ぶことがあります。

もちろん、日本曹洞第一道場は道元禅師が開かれた永平寺です。

また、徹通禅師が開かれた大乗寺は永平寺のお直末(じきまつ)の筆頭という位置づけがされます。

寒巌禅師開かれた熊本の大慈寺、瑩山禅師が開かれた加賀の永光寺(ようこうじ)、總持寺祖院は参拝したことがありますが、宝慶寺や大乗寺はまだ訪ねことがありません。

その意味では、光尚は宝慶寺で残りの二ヶ月を過ごせるということは、有り難い経験になると思います。

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↑ この画像だと、永平寺と宝慶寺の位置関係がわかるかと思います。

オレンジ色の丸が永平寺、黒丸のあたりが宝慶寺です。

深山幽谷で坐禅三昧の日々を送った寂円禅師、やがて弟子の義雲禅師が永平寺に入り、五代尊と呼ばれ、永平寺中興の祖と呼ばれることになり、寂円禅師の法孫が永く永平寺の住職を歴任しました。

宝慶寺の伽藍は、この山歩きのウェブサイトで詳しくご覧いただけます。


今日は、午前中袋田地区防犯パトロールで川西の半分を巡回してきました。

ご年始歩きでは、前半にあたる部分です。

半分は、川西区長さんが回ることになっています。

防犯チラシを配ったり、高齢者の所在確認、空き家の情報などの他、寄せられたイノシシの出没情報も報告して、皆さんで共有したいと思います。

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↑ 男体山と長福山、宝慶寺があるあたりの標高は500m、長福山の山頂と同じ高さです。


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コメント 2

norisuke

光尚君もいい場所での最後の修行ですか。割と近いんですね。
帰ってくるのがたのしみですね。
by norisuke (2023-08-19 16:11) 

袋田の住職

norisukeさん 永平寺の表示位置が間違っていたので直しました。
山道なので移動は大変ですが、直線距離ではけっこう近いですね。
昔は山越えで歩いて行ったと思われますが、冬は閉ざされたことでしょう。
by 袋田の住職 (2023-08-19 16:25) 

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