常明寺さまの本葬でした。龍泰院山号の由来 [信仰]
10月25日に遷化された(亡くなられた)常明寺住職今井義弘老師本葬が
三十五日忌にあたる本日(28日)檀家葬をもって厳修されました。
↑ 27日の逮夜(通夜)の前に撮影した本堂です。
以前、何度かこのブログでも紹介してます、龍泰院はここの末寺になるのでいろいろお世話になっています。
↑ ということで、うちの護持会でも花輪をお供えしました。
また、笠間市岩間の安国寺の兼務住職も勤めていたので、その関係者も参列されていました。
東側から車で登る道は、狭い林道一本だけなので大子ブルワリーに集合して、そこからマイクロバスで登りました。
↑ 通夜の薬石、当日の設斎(昼食)もここでした。
ここの地ビールは絶品なのですが、車なのでお茶にしました。
ブルワリーの近くに古い石碑があります。
↑ 熊野山、出羽三山の石碑などがありますが、山岳信仰があったことを示しています。
実は、ここが常明寺の表参道です。
800mの山道を歩いて登ると常明寺にたどり着けますが、今はほとんど登る人はいません。
開創時の熊野山という山号は、末寺である龍泰院が貰い受け、月照山となり、羽黒院という院号もあります。
佐竹貞義が開基といわれてますが、佐竹貞義の息子で、足利尊氏に従い各地を転戦した武将佐竹師義が、その軍功により、依上保を拝領したので、その頃に臨済宗の寺院として開創されたものと考えられます。
貞義の長庶子に月山周枢和尚がいます。月山和尚は、夢窓疎石の弟子であり、臨済の禅風を佐竹領内に広めました。
その後、曹洞宗系の僧侶がこの地に入り、曹洞宗に改宗されました。
龍泰院の開山天山正繁大和尚は常明寺の二世なので、筆頭末寺になっています。
今日は、維那というお役を務めさせて頂きました。
納舎利諷経の導師も勤めましたが、無事に本葬と納骨をすることができました。
本堂裏手の歴住墓地には龍泰院の世代に入っている住職も埋葬されています。
標高300mの山の上にある墓地からは、男体山、白木山、月居山、生瀬富士、鍋足山などが一望できました。
三十五日忌にあたる本日(28日)檀家葬をもって厳修されました。
↑ 27日の逮夜(通夜)の前に撮影した本堂です。
以前、何度かこのブログでも紹介してます、龍泰院はここの末寺になるのでいろいろお世話になっています。
↑ ということで、うちの護持会でも花輪をお供えしました。
また、笠間市岩間の安国寺の兼務住職も勤めていたので、その関係者も参列されていました。
東側から車で登る道は、狭い林道一本だけなので大子ブルワリーに集合して、そこからマイクロバスで登りました。
↑ 通夜の薬石、当日の設斎(昼食)もここでした。
ここの地ビールは絶品なのですが、車なのでお茶にしました。
ブルワリーの近くに古い石碑があります。
↑ 熊野山、出羽三山の石碑などがありますが、山岳信仰があったことを示しています。
実は、ここが常明寺の表参道です。
800mの山道を歩いて登ると常明寺にたどり着けますが、今はほとんど登る人はいません。
開創時の熊野山という山号は、末寺である龍泰院が貰い受け、月照山となり、羽黒院という院号もあります。
佐竹貞義が開基といわれてますが、佐竹貞義の息子で、足利尊氏に従い各地を転戦した武将佐竹師義が、その軍功により、依上保を拝領したので、その頃に臨済宗の寺院として開創されたものと考えられます。
貞義の長庶子に月山周枢和尚がいます。月山和尚は、夢窓疎石の弟子であり、臨済の禅風を佐竹領内に広めました。
その後、曹洞宗系の僧侶がこの地に入り、曹洞宗に改宗されました。
龍泰院の開山天山正繁大和尚は常明寺の二世なので、筆頭末寺になっています。
今日は、維那というお役を務めさせて頂きました。
納舎利諷経の導師も勤めましたが、無事に本葬と納骨をすることができました。
本堂裏手の歴住墓地には龍泰院の世代に入っている住職も埋葬されています。
標高300mの山の上にある墓地からは、男体山、白木山、月居山、生瀬富士、鍋足山などが一望できました。
2013-11-28 21:12
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