三十八世の50回忌の命日なので・・・ [龍泰院]
5月28日(土) 今日は、父である龍泰院三十八世泰悟英信大和尚の50回忌の命日です。
新型コロナ感染症を考慮し、法要は内献とさせていただき、後日報恩供養を修行する予定です。
昨日で、本堂改修工事の大工仕事は一段落しました。
↑ 本堂正面入り口もきれいになりました。
木製建具がすえつけられるまで、ここからは入れません。客殿の入り口からお入りください。
↑ 昭和初期の龍泰院の本堂です。
写っているのは、祖父出村信界、左端は永源寺の中村大栄さん、大信老師のお兄さんです。
その右が、父英信の兄泰信、右が父だと思われます。
泰信は、昭和5年2月17日に交通事故で亡くなっているので、それ以前の写真ということに・・・
大栄師は、父親である大典老師を早く亡くし、世田谷学園から駒澤大学に進学し、卒業後永平寺で修行、
永源寺40世住職になりました。
祖父の信界が永源寺の兼務住職をしていたので、学生生活の様子などを、手紙でまめに報告されてました。
今回、本堂の書庫を整理していて、父宛や、祖父あての手紙がたくさん見つかりました。
大栄師は、昭和13年に26歳の時に日中戦争で戦死、祖父は再び兼務住職になり、大信老師を後任住職として育英しました。
↑ 父英信の得度式の写真です。
祖父信界、叔父昌道、英信、叔母篤子、祖母ちのゑです。
↑ 大信老師の法戦式の写真です。場所は水戸の祇園寺で、小原宜仙老師のもとで立職されてます。
本師である祖父と父も写っています。
最前列の右端が父英信です。左隣の北條栄周師は父と一緒に横浜の西有寺で修行されてましたが、
戦死されています。
今回、父の遺品を片付けていて、いろいろなものが出てきました。
↑ 駒澤大学の学長はじめ、教授、学友からの寄せ書きがなされた日の丸です。
↑ 長野県上田の龍洞院、村上博優師の名前がありました。
その後、父の妹、篤子と博優師の弟、鱗勝院の村上宏人師が結婚されることになるとはこの時は思わなかったことでしょう。
↑ この頃、秦慧玉禅師も駒澤大学で教鞭をとっていたようです。
昭和57年に私が永平寺で修行した時の禅師様です。
↑ 戦前の父の手紙です。
世田谷学園に在学中、信界和尚に毎月、いくら使ったの決算報告をされてました。
いままで、父は、西有寺から真っ直ぐ軍隊に入営したと思っていたのですが、
昭和19年4月に駒澤大学に入学していて、一年後に宇都宮の連隊に入営していたことが確認できました。
その後まもなく、中国戦線に送られましたが、5ヶ月後に終戦となり、引揚船で無事帰国しました。
戦争中の栄養不足がたたり、肺の病を患い、長期入院を余儀なくされましたが、昭和31年12月に母と結婚、
一男一女の父となりました。
手紙を見ていたら、永源寺中村家、龍泰院出村家のファミリーヒストリーが少しだけ見えてきました。
瀬戸信界が出村玉明と養子縁組して出村信界になったことや、祇園寺との関係などを物語る手紙も出てきましたのであとでゆっくり調べたいと思っています。
本堂の工事ですが、週明けに内陣に赤絨毯を敷きつめます。
そのあと、できたところから木製建具を入れていきます。
お盆までにはすべて完了する予定で進めていきます。
工事中はご不便をおかけしますが、ご理解ご協力をお願い致します。
新型コロナ感染症を考慮し、法要は内献とさせていただき、後日報恩供養を修行する予定です。
昨日で、本堂改修工事の大工仕事は一段落しました。
↑ 本堂正面入り口もきれいになりました。
木製建具がすえつけられるまで、ここからは入れません。客殿の入り口からお入りください。
↑ 昭和初期の龍泰院の本堂です。
写っているのは、祖父出村信界、左端は永源寺の中村大栄さん、大信老師のお兄さんです。
その右が、父英信の兄泰信、右が父だと思われます。
泰信は、昭和5年2月17日に交通事故で亡くなっているので、それ以前の写真ということに・・・
大栄師は、父親である大典老師を早く亡くし、世田谷学園から駒澤大学に進学し、卒業後永平寺で修行、
永源寺40世住職になりました。
祖父の信界が永源寺の兼務住職をしていたので、学生生活の様子などを、手紙でまめに報告されてました。
今回、本堂の書庫を整理していて、父宛や、祖父あての手紙がたくさん見つかりました。
大栄師は、昭和13年に26歳の時に日中戦争で戦死、祖父は再び兼務住職になり、大信老師を後任住職として育英しました。
↑ 父英信の得度式の写真です。
祖父信界、叔父昌道、英信、叔母篤子、祖母ちのゑです。
↑ 大信老師の法戦式の写真です。場所は水戸の祇園寺で、小原宜仙老師のもとで立職されてます。
本師である祖父と父も写っています。
最前列の右端が父英信です。左隣の北條栄周師は父と一緒に横浜の西有寺で修行されてましたが、
戦死されています。
今回、父の遺品を片付けていて、いろいろなものが出てきました。
↑ 駒澤大学の学長はじめ、教授、学友からの寄せ書きがなされた日の丸です。
↑ 長野県上田の龍洞院、村上博優師の名前がありました。
その後、父の妹、篤子と博優師の弟、鱗勝院の村上宏人師が結婚されることになるとはこの時は思わなかったことでしょう。
↑ この頃、秦慧玉禅師も駒澤大学で教鞭をとっていたようです。
昭和57年に私が永平寺で修行した時の禅師様です。
↑ 戦前の父の手紙です。
世田谷学園に在学中、信界和尚に毎月、いくら使ったの決算報告をされてました。
いままで、父は、西有寺から真っ直ぐ軍隊に入営したと思っていたのですが、
昭和19年4月に駒澤大学に入学していて、一年後に宇都宮の連隊に入営していたことが確認できました。
その後まもなく、中国戦線に送られましたが、5ヶ月後に終戦となり、引揚船で無事帰国しました。
戦争中の栄養不足がたたり、肺の病を患い、長期入院を余儀なくされましたが、昭和31年12月に母と結婚、
一男一女の父となりました。
手紙を見ていたら、永源寺中村家、龍泰院出村家のファミリーヒストリーが少しだけ見えてきました。
瀬戸信界が出村玉明と養子縁組して出村信界になったことや、祇園寺との関係などを物語る手紙も出てきましたのであとでゆっくり調べたいと思っています。
本堂の工事ですが、週明けに内陣に赤絨毯を敷きつめます。
そのあと、できたところから木製建具を入れていきます。
お盆までにはすべて完了する予定で進めていきます。
工事中はご不便をおかけしますが、ご理解ご協力をお願い致します。
2022-05-28 12:19
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コメント(2)
正に出村家と中村家のファミリーヒストリーですね。僕も学生のころ
前衛的な写真のグループ作ってて、駒澤大学の学生も入ってましたよ。
よく新宿の地下街などで撮ってました。
by norisuke (2022-05-28 16:54)
norisukeさん 父は学歴としては世田谷中学卒業だったので、駒澤大学から学徒動員だったことは初めて知りました。大栄さんが、駒澤大学から大本山永平寺へ修行に行った時の資料も出てきました。私の祖父が保証人になっていたようです。
by 袋田の住職 (2022-05-31 11:32)